に、なりましたので

どんな時でも、身近に文章を

ないないない。

 

 

あー、寒いのか寒くないのか。

暑いのか暑くないのか。

よくわからない気温。

 

あー、こんな日は思わないようにしていたことを思ってしまう。

 

あー、消えてしまいたい。

 

しゅーーーっとなって、ぷつっと。

 

そんなことを考えるのは、責任から逃れたいから。

 

そう、逃れたい。

 

何にも背負わずにふわふわと生きていたい。

 

私の願いはただそれだけ。

それを願えるほど私は特権階級ではない。

あせくさと働かなければならない。

 

なぜなぜなぜ。

疑問を持つことは許されない。

 

疑問を持ってしまえばこう思う。

 

消えてしまえば働く必要はないのではないか、と。

 

今この消えてしまいたい瞬間が1番幸せかもしれないし、生きて迎えた10年後が幸せかもしれない。

でもそれを今現在の私が比べることはできない。

なぜなら私は今を生きてるから。

起こるかもしれないことに希望を持つことはできない。

なぜか。

消えてしまいたいと思うその瞬間まで、希望を持って生きてきたから。

希望と絶望の繰り返し。一日中。

何も得ることができない日々。

何か得たいと考えるだけの日々。

何も変えることのできない日々。

 

他力本願、上等。

 

 

あー、こんなことを考えてしまうのは幸せな人にあてたれたから、ゆっくり寝るわ。

 

 

2月になりました。

 

信じられない速さで時は過ぎ去る。

 

1分は長いのに、1日は短い。

 

一週間経つのは遅いのに、1ヶ月経つのは早い。

 

 

もう2月。先週まであけましておめでとうと話していたと思ってたけど。

 

毎日の積み重ねで人はできている。

では、怠惰な人間はどうなるのか。

あー、考えたくもない。

 

 

自分では手に入れることができないものを、他人が手にする。

この現象をどう受け止めるか。

羨ましがるのか、糧にするのか、恨むのか、諦めるのか。

一つ一つの行動がその人を作るし、どういう行動を起こすのかは分からない。

 

なぜなら予測することができないから。

 

できないのに、あの人はああだから、こうだから。笑ってしまう。

 

たまに会う人生の教訓を教えているんだよ人間。

なぜ結果も出ていないのに人の人生に指示を出すことができるのだろうか。

100人いれば100通りの人生がある。

働く人、働けない人、働かざるを得ない人、働くことが億劫な人、働くのが好きな人。

この逆ももちろんある。

 

その人その人の人生。

 

 

心地よい季節

 

 

人によって好きな季節は違う。

 

暖かい季節、暑い季節、肌寒い季節、息が白くなる季節。

 

それぞれの良さがある。

 

私の好きな季節は、肌寒い季節。

 

玄関を出た時に、寒いと思うぐらいの季節が好き。

 

好きだから贔屓してしまうのか、空気がシンとなっているところも、出していた手がすぐに冷たくなるのも、音がすぐに吸収されているように感じるのも全て好きだ。

 

そんな季節がもうすぐ終わる。

 

少しずつ、少しずつ暖かくなっていく。

 

 

嬉しいことは日常に。

 

 

神様、仏様、ご先祖様。

ありがとうございます。

 

そして生きとし生けるもの全てに感謝をしたくなる今日この頃。

 

健康に生きていると言うことが、

こんなに尊いものだとは普段病気などをしなければ意識が低くなる。

当たり前は当たり前ではない。

そんな簡単なことも忘れてしまう。

 

あー、本当に心配していたことが杞憂に終わってよかった。

 

本当によかった。

 

こんな時間、あんな時間

 

何時から朝で、昼で、夜。

何時だろう。

区切りはあるのかな。

 

屁理屈を考える。

 

まだ、朝だから、昼だから、夜だから。

だから、だから、だから。

 

逆に朝なのに、昼なのに、夜なのに。

とマイナスなことを考えてしまう時もある。

 

昼夜逆転

 

これを戻すためには何をするべきか。

そして、何をやめるべきか。

携帯を触らなければ済む話なのだけれど、

やめることができない。

私とあなたと世界をつなぐつーる。

私以外にも生きている人がいるのだな、とか、生活しているのだな、と実感することができるつーる。

聞くことのできないことを知ることのできるつーる。

これは中毒性がありますね。

 

その毒でじんじんじわじわ睡眠が奪われる

 

 

 

なんて容量の少ない人間。

 

私は小さいことで慌ててしまう。

他人にとっては些細なことで、私は焦りミスを犯す。

 

それを自覚しているので、

何か起こった時でも一呼吸おいて取り組むようにしている。

 

はぁ。自分自身にもう少し容量があれば。

どんなことが起こったとしてもどっしりと構えられる容量があれば、と何回考えたことだろう。

 

考えて考えて、考える方向性を間違えて。

なんだそれ繰り返せばいいのだろう。

 

そんなことを考えながらダラダラと過ごす。

 

あー自分に合った仕事がないだろうか、とかそんなことを考えながら生きている。

 

自分に合わない仕事をあと40年、いやもっとしなければならない。

それをするのは果たして自分でなければならないのか。

自分でならないのか、は自分の能力を過信して考えているわけではなく、単純に心躍る仕事でない・あきることのある自分が成し遂げることができるのかという不安から出ている。

 

たとえ他者がしたくないと思っている仕事でも、私の心が踊るのであれば進んで勤めたいと考えている。

 

心躍る仕事に出会える人と出会えない人。

私はどちらになるのだろうか、

 

いつかお金のためと割り切れる時が来るのだろうか。

それとも思考も大人になり心躍る仕事ではなくても、心踊っているように自分自身を騙すことができるのだろうか。

 

昨日と今日で考え方は変わる。

それを言ってることが違うからといって、

糾弾してはならない時もあるし、そうじゃない時もある。

過去から学び現在の行動を変える、それでいいではないか。

 

年末年始を過ごし、忙しかったのか疲労が溜まっている。

 

今夜は良い夢見れますように。

 

違う考え方

 

パートナーお別れしてから随分と経つ。

その間寂しくなかったと言うと嘘になってしまう。

それでも友達と過ごしたり仕事や勉強をしている時間は充実しており、誰かと付き合いたいと思う気持ちは薄らいでいた。

 

付き合いたいと言う気持ちはあるけれど、

自分のフィーリングを無視してでも誰かと付き合いたいと言う気持ちはない。

 

それでも私の年齢になると周りの独身の友人たちは彼氏や結婚していないことに焦りが出てくるのか、その話題で持ちきりになる。

 

付き合いたい気持ちもあるので付き合いたいね等の話をすることは、苦痛ではないけれど、パートナーがいないことで自己嫌悪に陥っている友人と話すと悲しく・苦しくなる。

 

パートナーがいないというだけであなたの価値が下がるわけでもないのに。なぜそんなにいないという現状を受け入れることができないのか。

 

私は私が好きだから、

パートナーがいない現状を楽しんでいる。

だけれども、今の年齢でパートナーがいなければ"一人は寂しいと思っているに違いない、パートナーがほしいという思いがあるけれどいない"というレッテルを貼られてしまうし、パートナーがいる友人からはその憐れみのような感情を与えられる。

 

私はこの現状を受け入れて楽しんでいるのに、、、、。

そもそもパートナーがいないというだけで、心配や憐れみを受ける意味がわからない。

 

これを友人たちに話しても強がっていると捉えられたので、この先再度伝えることはないだろう。

 

憐れみを与える人たちはパートナーがいないことで、人生のマイナスだと思っているのかもしれないけれど、そうではない人もいるということをいつか知ってもらえれば嬉しい。

 

これは強がりでもなく。本音。

 

私は、敬愛する家族がいて、親愛なる友人に囲まれ、愛するパートナーがいても孤独感を強く持っているので寂しい。

 

私はそれを受け入れている。