に、なりましたので

どんな時でも、身近に文章を

真夜中の徘徊

 

 

今週は三連休ということで、

土曜日の夜に寝ても、あと二日間休みがある。

 

これが心の余裕。

 

休みの時にしか得られないものがある。

 

金曜日の晩から自分の気持ちが赴くまま、寝て、寝て、起きて、ご飯を食べて、寝て、寝てご飯を食べて、ダラダラする←イマココ

 

そして、やっとやっと新しい漫画を開拓できる余裕ができたので、試し読みを進める。

 

あー。わたしに足りなかったのはこの時間。

どの漫画を購入するか、吟味に吟味を重ねる。

あ、この漫画いいな、後で買おう。と思った後に、即購入する漫画に出会う。

 

あゝ人生。

あ、いいなと思った漫画を即購入できる財力が有れば、と毎回思う。

思うだけで今現在はそれができないので、諦めてビビビときたものを購入。

どうか試し読みの続きも面白いことを祈って。

 

 

麦茶の美味しい季節

 

 

 

やほほ

 

時間に追われていると、何もすることができない。

 

本を読むことも映画を読むことも、散歩をすることも。

 

全てのことが時間に余裕が生まれるときにし楽しむことができない。

 

他の人は違うかもしれない。

けれどわたしはそうなのです。

 

究極に疲れているのに寝れない日、お風呂に入りたいと思う気持ちが焦る、お風呂の時間。

どれもこれもが日常。

あぁ日常。

 

 

この流れる時間に慣れてきたのかもしれない。

 

 

自分の好きなこと、出来ること、その全ては違う。

 

何が向いて何が向かないのか。

それを実際に行うまではわからない。

 

いろんな環境を見てみたい。

 

何てったって、一度きりかもしれない人生。

たらればで生きるには長すぎる。

 

自分の好きなように。

だけど、この人の話は耳が痛いや腹立つと思った発言は自分が気にしてることや改善したいと思ってることかもしれないから、そこは真剣に聞くように。

 

あと、二ヶ月。

駆け抜けて師走。

 

 

 

お久しぶりの自炊

 

 

毎日遅くから晩まで外に出ていると、帰ってきてからの自炊がとっても億劫。

 

お米だけでも炊きたい、、、。

と思いながらも、ついついお惣菜に手を出してしまう。

 

まぁ、それでもいいんです。

 

自炊したいという気持ちが大事なのです。

その気持ちを肯定します。

 

という決意表明。

 

外食やお惣菜が続くと、

手作り料理が食べたくなるね。

 

そんな夏の終わり。

 

いつ終わるかわからない夏の終わり。

 

ほんとにいつ終わるの?夏の終わり。

 

 

だらだらと。

 

星新一のドラマを見ながら髪の毛を乾かす。

 

そんな日常。

 

幸せです。

 

今回はものぐさ太郎という物語なのね。

 

 

ぐーたらぐーたら、するのは楽しい。

部屋が散らかるのもお構いなしに、色々な袋を開けたり、本をパラパラ読んだり。

 

あらあら、ドラマの中で仕事を探し始めましたね。

ものぐさ太郎の特徴は、大変な面倒くさがりというのが心理相談でわかった。

 

それに見合った仕事を紹介。

 

いいな、いいな、生活から仕事を割り当ててくれるなんて。

 

ものぐさ太郎も働き始めた。

孤独な老人の話し相手になるというもの。

 

働くのか。

 

私も明日働くよ。

 

今週は三連休だから楽に感じるね。

 

ものぐさ太郎を見ながらぐっない。

 

 

 

 

自己完結という癖

 

 

あーでもない、こーでもないと頭の中ではぐるくまるぐるぐるぐるぐると何かを考えている。

 

考えているけれど、それを言語化して誰かと共有するということはあまりない。

 

なぜなら、そのことを延々と考えていたいから。

結論を出したいわけではない。

 

そういうわけで今日も意味のないことを延々と考える。

 

 

最近考えていること、それは、思っていることを言葉という音を出すことは結構しんどいけれど大事なことだということ。

 

空気を重んじ、空気を読むこと・読めることが美徳とされているけれど、やっぱりその人が何を考えているのかは分からない。

 

私もそうだし、他の人もそう。

 

阿吽の呼吸に憧れるのも分かるけれど、自発的に私はこういうことを考えています!とか、助けてください!とか、発信したいくのも大丈夫。

 

誰かがそれを受け止めてくれる。

 

私がそういう経験があったから言えること。

 

そして、発信しても一人ぼっちだったこともあるから、発信する虚しさも分かる。

 

一人がいい〜一人が楽という考え方は、ある意味虚栄なのかもしれない。

 

誰かしら人と繋がっていないと、孤独を感じることもある。

 

 

家族と友達と他人と、わたし

 

 

家族といる私。

友達といる私。

他人といる私。

 

家族と友達と他人を分けるものはなんだろう。

 

他の繋がり?時間の共有?

何をもって、家族になり、友達になり、他人になるのか。

 

他人と家族の違いとは。

私が今過ごしている家族も、生まれた子が私というアイデンティティを持っていなくても家族として扱う。

 

そうなれば、私は他の家族の中に過ごしていた可能性もある。

 

その家族とは今、他人として接している。

 

たまに、隣人を愛せという言葉を思い出す。

私はこの言葉が好きだ。

 

遠いアフリカの国の貧困のことを真剣に悩み、ボランティアをして助けようとすることも大事だと思うけれど、今、生きている国にも困っている人がいる。だけど、そこには目を向けようとしない。

その人を下に見て安心したいる人もいるし、同じ国、同じ言語を話していた下に見ていた人が世間的に成功した時に、純粋に喜ぶことができるのだろうか。

遠い国の人には手を差し伸べることができるけれど、身近な人には優しくできない。

そんな人もいると思っている。

 

その、下に見ている人も家族だった世界線があるかもしれないのに。

どこかで人はつながっていると思う。

家族の幸せを願うことはできるのに、職場や学校の人にきつくあたったり嫌な思いをさせたり、そんな矛盾している行動をしている人も多いと思う。

 

きつく当たられている人が、家族の好きな人だったら、そんなことを続けることができるのだろうか。

 

なぜ、家族を思う大切な気持ちを、他の人に使うことができないのか。

 

 

ということを、考える帰り道。

まとまってないこと、答えがないことを考えるのは楽し〜。

 

 

 

さみしいという感情

 

 

あー、歯を磨かなければ。

 

こう思い続けて1時間。

 

携帯を触る元気はあるけれど、

立ち上がって洗面台に行き、歯を磨くという行動が起こさない。

 

イメージはバッチリなのに。

 

あー、このまま寝てしまおうか、と何度も思う。

でも、すっきり起きたいので歯は磨きたい。

 

あー、磨くか。

 

眠たいと歯を磨かなければとの感情で、あーあーあーとあの音ばっかり出てくる。

眠たい。

眠たいという感情。さみしいという感情。

 

 

ぐっない